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「キリスト教綱要」の翻訳で知られる著者の主著
新たな項目を加えた〈決定版〉!

生涯をかけてカルヴァンを学ぼうと志した著者は,カルヴァンの神学全分野の中でも「教会論」に焦点を絞って取り組んできた.
教会を論じるとは,教会の終わりまでを見据えた議論である.終わりを見据えることは,その初めに遡って考えることが絶対条件である.なぜなら,カルヴァンが教会を論じるとき,この初めと終わりとを見通していたからである.ここに理解の鍵がある.
序説

  1 カルヴァン研究の重層性
 第1章 カルヴァンと教父
  1 古代教会の教会論
  2 司教職の意味
  3 つとめの客観化
  4 聖にして公同的
  5 アウグスティヌス

第1部 教会の選び
 第2章 われは教会を信ず
 第3章 隠された選び
 第4章 キリストにおける選び
 第5章 契約の民
 第6章 神の国
 第7章 終末に向けてある教会
  1 千年王国的幻想の拒否
  2 安息の日
  3 義とされつつ常に罪人
  4 希望に生きる
  5 直線的な時間の一回性

第2部 教会の結集
 第8章 言葉による結集
 第9章 つとめを通じての御言葉
  1 つとめへの召し
  2 霊のつとめ
 第10章 神の言葉
  1 神の言葉と聖書
  2 神の言葉と説教
  3 説教とは何か
 第11章 礼拝への結集
  1 キリストの現臨
  2 礼拝の諸要素
  3 補説 カルヴァンの礼拝順序について
 第12章 終末のしるし
  1 言葉と聖礼典
  2 洗礼の要点
  3 洗礼の実施
  4 契約共同体への加入
 第13章 聖晩餐の受領
  1 聖晩餐の受領と聖餐理解
  2 説教と聖餐
  3 カルケドン的キリスト論と聖餐論
  4 補説 16世紀聖餐論争史
 第14章 聖餐共同体の形成
  1 聖餐論の把握
  2 ふさわしく受けさせるための牧会
  3 訓練について
  4 補説 16世紀改革教会の訓練規準
  5 聖晩餐の実施
  6 交わり
  7 補説 宗教改革時代の執事職思想
  8 家庭の秩序
  9 伝道する共同体

第3部 教会の形成
 第15章 福音的教会法
  1 教会の自律
  2 教会の法
  3 法の限定
 第16章 会議の構成
  1 福音に対する会議の責任
  2 各個教会と全体教会
  3 補説 カルヴァンの会議思想
  4 会議を作る人,人を作る会議
 第17章 教育する共同体
  1 教会と教育
  2 信仰問答教育
  3 終生の教育
  4 教師職と学校
 第18章 教会と学校
  1 神学と人文主義
  2 神学教育
   イ 宗教改革前の神学教育
   ロ 宗教改革と神学教育
   ハ カルヴァンの神学教育
   ニ ジュネーヴの神学教育の教科内容
   ホ 神学教育と牧師像
 第19章 教会と国家
 1 教会論と国家論
 2 カルヴァンに至るまでの宗教改革の国家思想
   イ ルター派の見解
   ロ ツヴィングリ派,ブーツァー派
   ハ カルヴァン
  3 カルヴァンとルター
  4 つとめの委託
  5 権力のあるべき構造
  6 教会と国家の正常な関係
 第20 章 抵抗権

結語

あとがき


1976 年,初版が世に出たとき,改訂版を書くことは考えてもいなかった.ところが,ヘルマン・ヨーゼフ・ジーベンという,それまで名前も知らなかったカトリック碩学の『古代教会の会議思想』(1979)という書物を手にする機会が来た.「教会会議の歴史」という,在来の「公会議史」の枠を越えて,地方会議をも加えた膨大なシリーズの序説の一部として位置づけられた一冊である.この書物で扱われる領域に関心があったので,さっそく読んだのだが,眼を開かれる思いであった.『カルヴァンの教会論』の中で,こういうことも論じなければならないのではないかと気になりながら,論を立てるだけの力量と知識が不足し,触れられなかった残念さが内で再燃したのである.
しばらくのちに「思想とキリスト教研究会」という団体から,同会の機関誌『途上』への論文寄稿の誘いを受けた.それで,ジーベンの書に啓発されたところに基づき,「カルヴァンの会議思想」という論文を書くことにした.論文の構想は,教会会議の理念を古代教父の神学にまで遡ることによって,カルヴァンの中に受け継がれていた会議理念を基礎付けるとともに,カルヴァン以前の宗教改革における会議の推移について新たに入手した資料があるので,それも加えた上で,カルヴァン自身における教会会議の理解と実践を纏めようというものである(『途上』11 号,以文社,1981年).
教会の会議は,位階制の構造に対抗するものとして考え出された制度でなく,それ以前に使徒たちによって築かれた秩序である.また便宜のために導入された手段でなく,神学的思考によって成り立ち,かつ維持されるものではないか.―― そのようなことを考えずにおられなくされて来ていた私にとって,この論文を書く機会が与えられたのは感謝すべきことであった.したがって,この論文は,先に書かれた『カルヴァンの教会論』第1 版の第3 部,第16 章の4 補説「宗教改革における会議思想」の抜本的な書き直しである.先の論文で間違ったことを論じていたわけではないが,神学的思考においても,資料調べにおいても掘り下げが貧しかった.
カルヴァンが教会を神学的に考える時,脳裏に思い浮かべた「会議」理念はどういうものであったか.彼自身特に論じることをしていないのだから,カルヴァン研究者たちが取り上げなかったのは当然かも知れない.だが,論を立てていなくても,彼には考えるところがあったのではないか.それを解き明かすためには,すでに改革派神学の先人たちが古くから考えていたように,旧・新約聖書に依拠するのは当然だが,古代教父に遡って論を起こさなければならないという着想は私にもあった.けれども,学浅く,手が付かなかったのである.だから,その欠けは若干補うことが出来た.したがって,旧著が版を改める日には,この部分を新しい論文と差し替えなければならないと考えるようになった.初版と違っているのは,若干の文章の修正を別とすれば,その部分だけである.

初版から30 年経過したのであるから,改訂すべき箇所はほかにもある.書き足したいと特に思ったのは,第2 部,第14 章,7 補説「宗教改革時代の執事職思想」である.私自身,教会のアクチュアルな課題として追っていたし,エルシー・マッキーさんのような問題意識を共有するカルヴァン研究者も現れたし,資料も増えたし,現代のこの国の教会におけるディアコニアの理解と実践についての所見もある.
カルヴァンのディアコニア理念について,ある程度関心が持たれるようになったが,ジュネーヴと日本では状況が余りにも違うので,彼の理念はここでは役に立たない,と言う人が多い.しかし,状況に左右されない恒常的な教会のつとめとしてのディアコニアを,カルヴァン自身が追求したことは事実なのだ.したがって我々にも示唆を与えているのではないかと私は思う.すなわち,「教会が小さくて何も出来ない」のでなく,「小さくても出来る.いや,小さいからこそ出来る」という真理の一面に眼を開かせてくれるものがあるのではないか.これを新しい版で論じなかったのは,知るべきことがまだ増えて行くように思われるからである.
新版のためにタイプセッティングをし直したのであるから,本文は通して書き下すのが良いに違いない.しかし,手を入れ始めれば,新しく考えさせられる問題に次々逢着するであろうし,それに取り組んでいる時間は残されていないであろう.
註に関しても,追加したり差し替えたりした方が良い所が,思いつくだけでも少なからずある.それを実行しなかったのは,この書の執筆に用いた資料と,その後も続けて集めていたカルヴァン文献のいっさいを,過ぐる年「カルヴァン・改革派神学研究所」(日本キリスト教会神学校内)に提供し,手元に資料はなくなったからである.川越の研究所まで行けば調べることは出来る.だが,書庫内のそれぞれの書物の位置を熟知しておらず,現在の私の体力と視力では,新しく調べ直すことを断念するほかなかった.

増補改訂版の「あとがき」において触れたいと思っていたもう一点は,初版を書き始める際の最も強い動機が何であったかである.初版の「あとがき」にそれを書かなかった理由は,以下の事情から察して頂けると思う.
京都大学文学部哲学科キリスト教学の主任であった今は亡き武藤一雄教授から,学位論文を書くようにとの懇篤な勧めを受けたのである.長年の親しい交わりを受けていたが,「基督教学徒兄弟団」という団体においてのものであって,師弟関係にはちょっと外れ,先輩後輩とは言えるとしても,やはり「兄弟」の関係であったと思う.「基督教学徒兄弟団」について,今では知る人も残り少なくなったが,戦後の飢餓を抜け出したばかりの状況下,知的な飢えを感じているクリスチャンの間で,関西においてかなりのインパクトを与えた運動体である.私自身,戦争で喪われた時間を取り返すだけでなく,自己の人生をあのように無残に踏みにじった「戦争」とは何であったのかを問い続けねばならなかったから,これに関わっていた.この団体が名の通り「兄弟」の交わりを実現していたわけではないが,武藤さんや,その京大哲学科時代からの親友で,兄弟団の代表であった故久山康さん(関西学院院長)たちは,私にとって兄貴分であった.―― 久山さんはこの書物の著作に直接には関与しないが,武藤さんを思い起こすとき,同時に思い起こさずにおられない懐かしい人である.そして,私が文章を書くことに励んだのは,恐らく久山さんの影響である.久山さんはまた私がカルヴァンを生涯かけて学ぼうとしている志をいつも応援していた.
彼らは先生ぶることも,先輩ぶることもせず,後に続く者が育ち上がり,伸びて行くようにと骨折ってくれた.例えば,私が本を出すたびに,賞賛者自身の信用を失うのではないかと思うほど,ほめて宣伝をしてくれたものである.私にとって彼らは,時に意見を闘わせながらも,親愛と尊敬を保ち続け,キリスト者としてどう生きるかを考えさせてくれる兄たちであった.

そのような心情のこもった勧めに対して,「自分は牧師のつとめに召された者である.学問を愛しており,教会のためにも生涯学び続ける責任を感じているが,学位はこのつとめにとって無関係と思う」という意味の返事をしたのである.ところが,熱心な勧めはなお止まなかった.結局その勧めに従うことになったが,このように懇切に勧めてくださった善意の方に恥を負わせるようなくだらぬ著作を書いてはならないという思いを籠めて,微力ながらも渾身の努力をした.
私は海外留学もせず,国内に閉じ籠って外国の書による神学研究をし,それで足りているとしてきたが,50 を過ぎて漸く,アジアその他の地域の教会,神学校,また学界との交わりが始まった.海外との接触になると,初対面のときから研究者として扱われるので,長いアプローチを抜きにして,いきなり本質的討議を始めることが出来たのである.この一件だけでも,武藤さんに勧められたことの有難味がわかって,かつてこれを無視した己が浅慮と粗野さに痛み入るほかなかった.それとともに,このようなことを偉そうに言う弟分に,よくぞ辛抱強く説得してくださったものだと感謝を深くしたのである.
いつか,こういうような書物を書きたいものだとの大まかな構想があったし,この書物の線に繋がってくる講義を試みたこともあるのは初版のあとがきに書いたとおりである.それでも,よほど強く促されなければ,なかなか一つの著作を書き上げる気は起こらなかったのである.

地上の歩みがあと僅かであると覚える年齢に達して,来た道を振り返ると,神の恵みを第一に挙げなければならないのは勿論であるが,多くの人々に支えられて,志す方向に向けてひたすら走ることが出来たのだという感を,いよいよ心に刻まずにおられない.この書物に凝集されたものは,自らの学びというよりは,私にこのような学びをなさしめた多くの人々の厚意である.『カルヴァンの教会論』は私にとって特に思い出の多い書物であるから,その増補改訂版を世に送るに際して,かつて自分が受けたものについての深い感銘を噛み締めるのである.
それでは,かつて自分が受けた厚意に見習って,同じようなものを,次の,より若き世代に送り届けたであろうか.そうではなかったように思われる.先生ぶって門下生を率いることはしなかったが,それは私の美徳でも何でもなく,能力のなさを知っていただけのことである.同意見を言う追随者を育てなかったことは,それで良かったと考えるが,意見の違う人も伸びるようにと,どれだけ尽力したであろうか.これは検討されなければならない.例えば「基督教学徒兄弟団」の兄たちが,意見の違う生意気な弟を育ててくれたような大らかさは,私の世代には失われてしまったように思われて,恐ろしくなってくる.今気づいても何とも出来ない一大痛恨事である.せめて,この険しい時代の精神的貧困の中に自らも生きながら,それでもなお立てて置こうとした証しが,何を指しているかが伝わることを願っている.

主の年2006年待降節
渡辺信夫

カルヴァンの教会論

ポイント 231pt
販売価格 4,620円
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